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ものづくりや行動に想いを込める:尾中幸恵さん

尾中幸恵さん

 少女は両親の運転する車に揺られていた。行く先を告げられようが、まだ理解ができないだろう。まだ4歳だ。ただ、ひとつ分かった。親が自分を置いて去っていく。周りを囲む大人たちの制止を振りほどいて駆け寄り、一心に父のベルトを掴んだ。父はベルトを強く掴んだ娘の、まだ細くて小さい手の一本一本を離していく。4歳とは思えない力だったという。父の目には涙が、ベルトには血が滲んでいた。
 尾中幸恵さんは2歳で失聴。4歳になる頃には実家から遠く離れたろう学校の寮へ入らなければならなくなった。
 それから20年、三児のママとなり、さらに20年後には自身の経営するカフェのママになった。今年、「コーヒーハウスCODA(コーダ)」は6年目を迎える。

人気メニューのオムカレー

 滋賀県庁からほど近く、JR大津駅から徒歩2分のお店には多くのお客様が集まる。調理師の資格を持つ尾中さんは、調理も含む実質的なお店の経営のほとんどを行っている。

 もちろん音声コミュニケーションに障害は生じるが、お客様のささやかな配慮やそれに応える尾中さんを見ていると、その壁をあまり感じない。むしろ充実感に似た暖かい雰囲気がお店を包んでいた。

 

きこえないというハンディキャップが与えたもの

 尾中さんは4歳から19歳で調理専門学校を卒業するまでの15年間を友人との共同生活で過ごしてきた。尾中さんは「きこえないことが嫌だったわけではない。(親と離れて)寂しいのが嫌だった」と幼少期を振り返る。その感情を紛らわすかのようなエネルギッシュな少女時代だった。熱中することは、尾中さんを苦悩から解放した。

4歳頃の尾中さん
4歳頃の尾中さん

 きこえないことに気づいたのは小学校3年の頃だった。実家に帰り、勉強しようと教科書を開くと、それは1年生の教科書だったことがわかった。周りと違うことに気づき始め、臆病になりかけていた。

 家族は、尾中さんを特別扱いしなかった。当時、手話への周囲の視線は冷ややかなものであったが、姉はどんな場でも伝えたいことが複雑な場合は手話を用いた。尾中さんが手話を隠すように姉の手を押さえると「さっちゃん(尾中さん)と話したいから手話を使うのは当たりまえでしょ!」という具合に。「きこえない」ということは、それ自体が「障害」なのではなく、「きこえない」ということでしかないことを姉が教えてくれた。「きこえる」と「きこえない」の違いを埋める何かが必要であると気づき始めた頃だった。

 高等部を卒業したあとは、同じ兵庫県内の調理専門学校へ進んだ。健常者と共に調理を学ぶ。尾中さんは声でのコミュニケーションができない分、調理そのものや、学生寮の掃除など「行動」を大切にしたという。自分の性格や想いを「行動」に宿して伝える。ひたむきさや、純粋無垢な部分に少しずつ周りが振り向き始めた。

 

夢をつかむまで

 就職は調理師としてレストランで働いてみたかった。しかし、きこえないことのハードルは高かった。縁のあった地元の銀行へ入行し、地元新聞は尾中さんを「聴覚障がい者初の入行」と取り上げた。周りは喜んでいたが、紙面の尾中さんに笑顔はなかった。その珍しさや周囲の期待とは裏腹に自分の気持ちは正直だった。

 苦しさともどかしさは続いた。上司の指示が分からない。両手の手のひらを広げ、「10」を強調して何度も振る上司。「コピーを取れ」という指示であることは分かるが「10枚」なのか「手のひらを振った回数×10枚」なのか分からない。聞き直そうとすると、上司はもう向こうへ行ってしまっていた。屈辱を何度も味わった。

 暗闇の中で、手話での会話だけが一筋の光となった。お互いに向き合って、想いを感情と伝え合い、ひとつ笑い話が出てきた頃には友だちになっている。尾中さんは次第に明るさを取り戻し、「殻にこもらず、少しずつでも周りに手話を伝えていくことが大事」と考えたという。誰でも楽しく手話を知る方法を考え、長男が幼稚園に通う頃には、園長先生の働きかけもあって幼稚園内にママ友達が集まる手話サークルができた。

 人の縁が巡り、尾中さんに「カフェをやってみないか」という話が舞い込んだ。「これまで起こった全てのことが、繋がっているように感じられた」という。今日も尾中さんは、「自分自身」や想いをたくさん詰め込んで仕込みに励む。尾中さんにとってそれは幸せなことだ。

尾中幸恵さん

 音声で発せられる言葉以外で、いったいどれだけのことが伝わるだろうか。尾中さんの幼少期からの体験は、いち早く尾中さんにそのことを気づかせたようだった。尾中さんの好きな言葉は「20歳の顔は自然の贈り物。50歳の顔はあなたの功績。(ココ・シャネル)」だ。50歳を超えた尾中さんの、目尻の深いシワがとても印象的だった。

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コーヒーハウスCODA

尾中幸恵さんの経営するコーヒーハウスCODA(コーダ)
滋賀県の大津駅にお立ち寄りの際はぜひ!

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