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自然なおもてなしのプロへ:前野尊さん

 冬の澄みきった空。大空という大きなキャンバスに、両手を広げながら曲線を描くように美しく飛び立ち、人や物、想いをのせて遠くへ消えていく不思議な乗り物“飛行機”。今日も、世界中をエンジン全開で飛びまわり、人と何かをつなげるために懸命に働いてくれている。そんな飛行機に子どもの頃から心を奪われ、現在、日本を代表する航空会社で勤務し、ダイバーシティの推進を図る自社に、難聴者である自らの視点を伝え、働きかけている男性がいると聞いた。どのような想いを抱き、仕事に臨んでいるのか知りたくなり、話を聞かせてもらった。

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誰にとってのあたりまえか

 前野尊(まえのたける、37)。生後3ヶ月で高熱が出て、2歳の時に音に反応しないことを家族が不審に思い、病院に連れて行った結果、失聴しているとわかった。聴力は70dB以上(高度難聴)で、職場である騒がしい事務所が、静かに感じることもあるレベルだ。幼少期は母に手を引かれ、地域の幼稚園へ通うとともに、聞こえやことばに障害がある子どもが通園する児童発達支援センターに通った。自分を見捨てず、遠方のセンターまで一生懸命連れて行ってくれた母の背中を、覚えている。小中高は地域の学校に通った。サッカー部に所属し、聞こえる友人に囲まれて育ったが、聞こえないことは、さほど特別なことではなく、自分にとってあたりまえのことだった。

――聞こえないことで、先生の話が分からない、周りの友人とのコミュニケーションで困ったことはありますか。また、何か工夫されていたことはありますか。

 「授業や友達との会話は、相手の唇の動きから話の内容を読みとる読唇術で理解しようとしていた。苦労することに慣れてしまい、悔しい想いをすることは、不思議とほとんどなかったかな。どうやったら学校の勉強についていけるかを考えて、予習をしたら、授業がわかりやすいと気づいた。その習慣を、今の仕事に応用しているよ。例えば、聞こえない人は、資料に目を通しながら会議の進行についていくことが難しい。だから、資料は事前にもらうようにお願いし、あらかじめしっかり目を通してから出席するように工夫している。自分にとってのあたりまえは、他の人とは違うし、比べても仕方がない。だから、その時の自分にできることを考えている。」

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つながる喜び

 高校を卒業し、親戚の電気屋でアルバイトをするようになった。アルバイト代で「iモード付きの携帯電話」を購入。当時、ショートメールが普及し始めた頃だった。今まで人の表情を読みとり、口話や筆談でコミュニケーションを取ってきた自分の中に、衝撃が走った。最長250文字まで入力でき、1通10円、緑色の画面にメッセージが届く。メールで言葉を送り、他者とコミュニケーションを取ることができる。

――ITの発達とともに、見えてくる世界が変わってきたのですね。自分にも何かできるのではと、新たな可能性を感じたのではないでしょうか。

 「電話ができないため、人との待ち合わせや気になる異性へのデートのお誘いも、一苦労だった(笑)。新しいコミュニケーション手段が出てきたと知り、感動せずにはいられなかった。インターネットも普及してきて、自分の聞こえに関することも調べられるようになり、びっくりしたよ。自分で情報収集する中で、知らないことを知る楽しさを知り、自然と情報伝達やパソコンに関わる仕事に就きたいという夢が膨らんだ。」

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 19歳の時に障害者を対象とした職業リハビリテーションセンターの情報処理科に入学。その後、大企業の特例子会社を経て、現在では日本の大手携帯電話会社になっている某社に入社。11年間WEBシステム課や人事課勤務を経て、昨年から現在の航空会社で働き始めた。トップとの距離も近く、難聴者視点での要望や提案を活かしてもらいやすい環境に、やりがいや魅力を感じている。

 

ダイバーシティの必要性

 働きながら、日本の障害者雇用について釈然としない気持ちを抱くようになった。平成25年4月から民間企業における障害者の法定雇用率が 1.8%から2.0%に引き上げられた。せっかく制度があって、障害者が入社しても、企業がその場しのぎの対応になってしまうことで、長続きせずに退職という繰り返しが多く見受けられる。培ってきた知識や経験を蓄積できないので、障害者雇用は企業にとって成長につながらない。法令順守のために障害者雇用に取り組んでいる企業や、費用対効果を考え、雇用納付金を納めて済ませてしまおうという意識が芽生えている企業がある。それでは、障害者雇用の根本的な解決にはつながらない。

 企業が存在し、成長していくためには、商品を購入、サービスを利用するお客様が必要だ。例えば、飛行機を利用するお客様には、働き盛りの会社員もいれば、子どもから高齢者もいる。国籍や生活環境、聞こえ方や見え方等も、多種多様である。

――企業は、多様な背景を持ったお客様のことを気づかうことが求められていますよね。お客様一人ひとりに、心から満足してもらえるようなおもてなしをするには、どのようなことが必要だとお考えですか。

 「まずは、社員同士が多様性を認め合い、視点の違いを尊重して意見を出し合うことかな。そうすると、僕みたいな背景を持った社員でも働きやすくなり、結果的にお客様のより良いおもてなしにつながっていくと考えている。多様な人が、それぞれの力を最大限にいかしていこうとする時には、能力を引き出す環境を整えること、そのような風土を築けるように意識を変えていくこと、社員がしっかり自覚を持って行動すること、どれも大切だと思う。聞こえない人には視覚的にわかる情報(文字や手話)が必要であるし、それが当たり前になっている風土、それをいかして自身の強みをいかしていく姿勢がいる。だから、企業内のダイバーシティ推進の必要性を感じているよ。」

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自分の視点を伝えていこう

 自分にとっての理想は、話したい人誰とでも通じ合える環境であり、自然と相手に合わせたコミュニケーションをとれる、そんな環境である。10年ほど前にiPS細胞のことが初めて取り上げられた時は、もしかしたら自分も聞こえるようになるのかと期待を膨らませて、一生懸命調べた時期もあった。しかし今働きながら、空港や飛行機内、職場を見渡してみると、アナウンスの内容が聞こえないことや、対面コミュニケーションを取る場などで不便を感じることも多くあり、自分以外の聞こえない人も困っているのではと気づいた。難聴者である自分の視点を伝えていくことが、周りに気づきを与え、環境を変えていくことにつながると考えるようになった。 

――心の中での葛藤も経て、今があるのですね。前野さんの想いが、所属する組織に新たな風を吹き込むことにつながっていると思います。前野さんは、今後どのようなことに力を入れて取り組んでいきたいとお考えですか。

 「最初からすべて上手くいくとは思っていないけれど、僕は、今の所属している企業が世界一のおもてなしを目指しているので、その目標に合わせて、自分も難聴者の立場から意見を発信し続けることが大事だと思っている。まだ具体的に何かを成し遂げたことはないけれど、今できることから動き出している。大きい話になるけれど、いつか様々な職場でダイバーシティが推進され、多様性を認め合うことがあたりまえになって、良い意味で障害者雇用率っていう制度がなくなるような社会にしていきたい。」

 

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 インタビュー終わりに、滑走路の近くにあって飛行機が頭上を飛んでいく前野さんお気に入りの場所に連れて行ってもらった。寒暑に関係なく、頻繁に足を運ぶという。フライトレーダーを見ながら、あと何分後にどんな飛行機が着陸すると嬉しそうに話す。遠くから近づいてくる飛行機を目の前にすると、だんだん自分の胸も高鳴っていく。飛行機のエンジン音くらい大きい音なら彼にも聞こえ、振動が身体にズシンと響くという。彼の感覚で、飛行機を楽しんでいる。

 現在の「あたりまえ」を変えていくのは容易なことではないかもしれない。しかし、ふと周りを見れば、現在の物や考え方の中には、少し前では考えられなかったようなこともたくさんある。社内のダイバーシティの推進で、全社員がいつでもどこでも誰とでも、自然なコミュニケーションが取れる企業を目指す前野さんの挑戦を、応援したくなった。

 

 

 

Photo by Takeru Maeno
Kazuho Kurita
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